2011年6月12日日曜日

◇ 国民学校:傘寿の同窓会

私は香川県の丸亀市出身である、といっても戦後の市町村合併で丸亀市に吸収されたところなので、私がいた頃は丸亀市に隣接した南村という小さな農村だった。

先般、丸亀市の広報誌「ふるさとletter」への執筆を依頼されたのを機会に、子供の頃の思い出をたどっていると、私はその頃の旧友に無性に会いたくなった。
 そこで「ふるさとletter」(平成22年度3月号)に昭和17年夏の思い出と昭和18年の卒業記念写真を掲載して、その頃以来、全く音信不通であった在郷の田中君に同窓会の開催企画を呼びかけたのである。
 この広報誌の反響は大きかった。田中君は小学校に赴いて当時の住所録を見せてもらい、それを頼りに全ての級友の消息を詳細に調査したという。その結果は
 男子33名⇒存命:10名,死亡:18名、不明:5
 女子44名⇒存命:24名、死亡19名、不明1
ということであり、男子の生存率はほぼ30%、女子は55%ということで、全国平均よりもかなり低いように思われる。
 私たちは4年生まで男女混合の2組だったが5年生からは男子組と女子組に分かれた。
 同窓会が開かれたのは529日(日)、午前10時に小学校に集合、学校を見学した後、そこからホテルの車で会場に向かった。
 私が小学校に入ったのは昭和12年である。この年に支那事変が始まり、5年生のときに大東亜戦争勃発、この年から小学校は国民学校と名前が変わった。
 その頃、村に電話があるのは役場と山本の醤油屋だけだった。小学校にも電話は無かった。
 小学校で当時の面影が残るものは、正門を入ったところの大きな蘇鉄と二宮金次郎の石像だけだった。木造の校舎は全て立派な鉄筋コンクリートの建物となり、まわりの風景もすっかり変わっていた。
同窓会に出席したのは男子:5名、女子の8名だった。入院中の者のほか台風の接近で急遽欠席となったものが2名もいて残念だった。
 瀬戸大橋が見えるホテルの部屋で68年ぶりに会った級友たちとの会話が弾んだ。私たちの級友は9割以上が市内またはその近辺、即ち故郷に住んでいたが、その頃の昔話とともにそれぞれが語る80年の歴史に私もしばし時の経つのを忘れていた。

(「ふるさとletter」(平成22年度3月号)はこちらをクリックしてご覧ください。) 

0 件のコメント:

コメントを投稿