2015年6月12日金曜日

私の死生観

                            
 自転車事故で膝の骨にひびが入ってほぼ2週間入院していた。私にとっては初めての入院であり、また生まれて初めての車椅子でもあった。そして、一日中ベッドの中にいて、人生というものを色々とを考えてみた。

人間が死ねばどうなるのか?

私の母などは寝たきりとなり、94歳で死期が近づいたころ、あの世というもの信じていたようで、余り死を恐れる様子はなく、夫や妹にまた会えるのを楽しみにしていたと思われるようなところがあった。特攻隊の生残りであった兄もあの世を信じていたようであり、彼らは幸せな人たちであったと思われる。

 私は、父と同じく、いわゆる敬神崇祖、そして森羅万象に神が宿ると考える古典的な日本人で、神仏は敬うが頼りにはしないという思想の持ち主である。

世の中には色々な宗教があり、その殆どがあの世を認めていて、死後は天国とか極楽、或いは地獄へ行くとしている。一神教の人たちは他の宗教は全て邪教であるとして排斥しているので、この世でたとえ親友であっても、キリスト教徒と仏教徒ではあの世で会うことが出来なくなるのであろうか?

それに、あの世へ行く年齢は死んだ時のものか?それとも任意の年齢でよいのか?もしも死んだ時の年齢であるとすれば。あの世は殆ど老人ばかりの世界で活気がない。それに最近のように医学が発達して長寿命になっていることを考えれば、我々よりもご先祖様の方が若いということになる。それに痴呆症やアルツハイマーの人は気の毒である。

一方,さまよえる霊魂が今生に影響を及ぼすという思想もある。怨霊や幽霊がその例である。日本では怨霊が祟りをなすというので、平将門や菅原道真、崇徳上皇のように神として祭り、崇め崇拝することによって社の中に封じ込めたこともあった。しかし菅原道真の場合には、その雷神がいつのまにか変身して天神様となり、学問の神様になったのは面白い。

日本では死者に鞭打つようなことはしない、いずれも神か仏として扱うのであるが、中国や韓国などでは死者の墓を暴いて、遺体を切り刻むとか、死後何百年も経った人の銅像を鞭で打つという習慣がある。これが靖国問題などで中国人や韓国人が日本人と意見を異にする原因にもなっているように思われる。
この中で怨霊は一般に上層階級の人で、幽霊は庶民的であるというのが面白い、そしてまた幽霊はなぜ女ばかりなのであろうか?

 霊魂の世界には時間というものがないとも言われる。そうすると死後の世界では生前の何歳の時の霊魂であろうかと聞いてみたくなる、生前における魂の成長や変遷を考えると死後の世界ではこれも止まってしまうのか、そうだとすると誠に退屈な世界でもある。転生という考え方もあるが、これは遺伝子や人口の変遷などから最近はあまり説得力が無くなった。

 死ぬということは生まれる前の状態に戻ることであると説く人もいる。しかしそれではこの世に生まれてきたことへの痕跡が何も残らないことになる。

 私は次のように考えるのだが如何であろうか?

 コンピュータから来た言葉にソフトウエアとハードウエアという言葉がある。私たちの体は時には熱き柔肌などともいわれるが、今のコンピュータ用語で言えばハードウエアということになる。私たちの体は両親がおられたからこそこの世に生を受けたのであり、その両親もまたそれぞれの両親がいたからこそ生まれてきたのである。これは人類、いや生物発生の起源にまで遡って順々に影響を受けてきたわけである。もしもご先祖様の一人が別人であったとしたら我々は同じ姿でこの世に存在することはなかったのである。我々もその子孫が存在する限り、その遺伝子は連綿として受け継がれていくであろう。

 一方、知識とか物の考え方といったものは両親や親戚の方々からは勿論のこと学校の先生や先輩、友人、さらに歴史上の人物までを含めて、実にいろいろな人たちから影響を受けて今日の状態が形成されたわけであって、もしも先生の一人が、あるいは友人の一人が別人であったとしたら、我々は全く別の人生を歩んでいたかも知れないのである。我々は日々、多くの人の影響を受けながら、また人に影響を与えながら生きている。

 つまり、この世に私がいたということは、私の発明や著作を通じて、また教え子とか友人たちになにがしかの影響を与えてきたわけであり、その教え子や友人たちもまた誰かにその影響を与えている筈である、その様に考えると我々のソフトウエアつまり霊魂は次々と次の世代へ引き継がれていって永久に耐えることはない。つまり我々の体や精神は形を変えながらも連綿として続いていくものと考えられる

 これが私の死生観であるが如何であろうか。

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